曇り空。せっかくの読谷村なのにいまいちな海が目の前に広がっている。
いまいちな海に向かって、東京から来たふたりは言った。
「めちゃくちゃきれい!」
ふたりとも、ほぼ初めて沖縄に来たらしい。わたしはその日、お仕事相手であるふたりとともに、あるリゾートホテルの取材に来ていたのだ。
「きれい…?」と驚いていると、ホテルの担当者が「普段はもっときれいなんですよ」と言い、わたしは大きく頷いた。だけどふたりは「わたしたちにとっては、十分きれいです」と言った。
そうか、そうだったっけ。そんなだっけ?…とにかくわたしは、すっかり海を見る目が肥えてしまったのだなと思った。
別のある日、思いつきで息子と海に行った。やることないから海にでも行くかというモチベーションだったが、思いのほか息子が楽しそうでわたしも楽しかった。
「海に行くと息子が楽しそうでわたしも楽しい」とSNSにアップすると、県外の友人から「海きれい!」「ふらっと行った海がこんなにきれいなんて羨ましい」と連絡がきた。
そっちかと思い、たしかにそっちだと思った。海がきれいという視点がすっぽりと抜け落ちていたことにびっくりする。どれだけ海の美しさに鈍感になっているのだろう。こんなに美しい海にふらりと行ける幸せを、もっと噛み締めろよ、わたし。
だけどよく考えると「海が美しい」という感覚は、もしかすると旅行客の特権かもしれないとも思った。住むということはその景色が日常になるということ。標準になるということなのだから。
ただし、この美しい日常を、上がってしまった標準を守るのは、わたしたち住んでる人の役目だ。そういえば海にはゴミひとつ落ちていなかった。人知れず海を守っている人がいるのかもしれない。
ライター
三好優実